【体験報告】
追跡! 乞食のおばあちゃんは金持ちか?

京都の三条大橋には、乞食のおばちゃんがいる。たまに、四条大橋にいることもある。橋の歩道にうずくまり、誰かがお金を置いていくのを待っている。このおばちゃん、冬は毛布、夏は茶色のシーツを頭からかぶり、顔も体も見せようとしないので、外見からは年齢も性別も分からない。だが、いつでも座っているので、京都ではかなりの有名人だ。




「乞食は三日やったらやめられない」と言われている。かなり儲かるらしい。では、このおばちゃんも金持ちなのだろうか。高級住宅街に暮らし、スポーツカーを乗り回していたりするのだろうか? いつか尾行して確かめたいと思っていた。

最初のチャンスは、突然やってきた。友人と橋の横で立ち話をしている時、おばちゃんが立ち上がる瞬間に出くわしたのだ。家に帰ろうとしているに違いない。僕と友人は息をひそめて後をつけ、橋の下でおばちゃんが着替えるのを待ち、三条通のマクドナルド前で自転車に乗ったのを確かめ、二キロほど自転車で追いかけた。だが、おばちゃんは途中で僕らの存在に気付いたのか、猛烈に自転車の速度を上げ、細い道や狭い路地に入り込み、僕らをまいてしまった。

さて、彼女をなぜ「おばちゃん」と呼んでいるかというと、その時の友人が、
「あの歩き方は女の人やろ」
と断言したためである。それまでは性別すらも判定できないくらい、毛布に包まった姿しか見せていなかったのだ。

また、どうして「お婆ちゃん」ではなくて「おばちゃん」かというと、自転車で走る速度がものすごく速いからである。もちろん、若い女の人という可能性も否定できないが、僕らが見た限り、歩き方に元気がないように思えたので、「おばちゃん」という表現に落ち着いたのだった。

そんなことがあってからというもの、三条大橋のおばちゃんは僕にとってますます気に掛かる存在となり、いつの日かその家を確かめてみせるぞと、心に誓っていた。おそらくもっとも確実な方法は、おばちゃんから斜め向かいに位置するスターバックスのオープンテラスに陣取って、帰る時刻を待ち構えることであった。だがそれほどの根気と時間も得られぬまま、一年以上の月日が流れた。

機会はふたたび巡ってきた。五月三十一日の夕刻。午後七時頃だったが、あたりはまだ明るい。金曜の宵の、あふれるほどの人通り。三条大橋の前を通ると、驚くではないか、問題のおばちゃんが、シーツをかぶったまま、横断歩道を渡ろうとしているのだ。これぞまさしく天啓と感じ、すべてのこまごまとした用事を後回しにして、おばちゃんの尾行を決意した。急な用事を抱えていなかったのは、幸いであった。かような機会に出会うたび、やるべきことは早めに済ませておくに限る、との思いを新たにする。

さて、おばちゃんと正面から対面したため、眼が合ったのではないかと危惧する。僕のことを覚えているかも知れない。尾行は一年以上も昔のことだが、その後もしばしば前を通り過ぎているし、先週などは、同じシーツをかぶって乞食ごっこしたいと考え、写真まで撮影したのだった。そんな僕をシーツの隙間からガラス玉のような眼で、じっと観察していていないとどうして言えようか。胸中穏やかならずも、そしらぬ顔をしてすれ違い、振り返っておばちゃんの行き先を眼で追った。前回は、三条大橋のローソン側から橋の下に降りて着替えた後、三条通のマクドナルド前に止めた自転車に乗ったのである。だが、今回は反対の方向へ。ゆっくりゆっくり、三条大橋を渡る。心なしか姿勢が傾いているように見えるのは、重い荷物を抱えているからだろうか。少なくともシーツの下に水筒かペットボトルを忍ばせているだろうと僕は睨んでいた。あの格好のままコンビニでお茶を買ったら、不審者扱いされるだろうし、自販機で缶ジュース買っているところを見たりしたら、お金をあげる気が失せそうだ。

橋を渡りきったおばちゃんは、河原への階段を降りていく。下まで降り切ったのを確認してから、僕は階段に足をかけた。そして小走りに下まで降り、右を見て、それから左を見たが、おばちゃんの姿は消えている。少し離れたところに、幸せそうなカップルや、暇そうなホームレスのおっちゃんを見るばかりだ。しまった。さては階段のすぐ下に自転車を停めておき、そのまま走り去ってしまったのか。河原にもサイクリングロードがあるのを忘れていた。前回、あれだけ着替えに時間をかけたからといって、今回も同じだけ時間がかかるとは限らない。

僕は檻の中の熊のように、むなしく橋の下を行ったり来たりした。だが、数回の往復の後、橋を支える柱の陰に、もぞもぞ動く人影を見つけた。見覚えのあるシーツ。僕は思わず飛びのいた。やはり、着替えを必要としていたようだ。わざわざ川の反対側まで来た理由は、よく分からない。段ボールハウスが建っていたりするためだろうか。僕は橋下から20メートルほど離れた土手に寄りかかり、本を読んでいる人や、いちゃこくカップルなどの間にうまく紛れたつもりでいた。おばちゃんが川を強行突破しない限り、その姿を見失う心配のない場所に陣取った。

それにしても日の暮れる前に帰ってしまうとは、ずいぶんお早い帰宅ではないか。時計を見ると、七時二十分であった。夜の方が、酔っ払いがお金を置いていくことが多い気もするが。この前の尾行の時は、もう少し暗かった気もする。だがそれは二月のことであって、時刻はほぼ同じくらいであったのかも知れない。着替えを待つ間、追跡の計画を練った。ひとりで尾行するというのは、案外大変なものだ。見失った時に、二手に分かれて探すことが出来ない。僕の存在を気付かれているかも知れないし、誰か友人に引き継いでもらう方がいいのかも知れない。

いちおう、前回の尾行で一緒だった友人に電話したものの、つながらない。他に、ひまな人間はいないだろうか。そもそも、かような尾行ごっこにつきあってくれる人間って、どれだけいるのだろうか。そんなことで悩んでいたのがおよそ三分間。やがておばちゃんはのろのろと橋の下から這い出した。後姿なのでよく分からないが、ねずみ色の、丈の短いジャンパー。骨盤の広がった、おばちゃん体型。なぜ着替えにそんなに時間がかかったかは、謎である。階段を上がり、川端沿いを北に歩いた。僕は五十メートルほど後ろを、自転車を押しながらついていく。御池大橋で渡った。

前回、自転車を停めてあったのは、三条通のマクドナルドの前であった。今回も同じ場所に自転車を停めてあるのだとしたら、これは明らかな回り道である。僕を撒こうとしているのか。御池大橋を渡り終えた時、おばちゃんがいきなり振り返った。歩道の真ん中にいた僕は、飛び上がりそうになった。どうやら尾行者としての基本的心構えが欠けていたようである。おばちゃんと同じ歩道の真ん中を歩くなど、愚の骨頂。せめて反対側の歩道を、別の歩行者の陰に入りながら、そろりそろりと進むべきであった。

僕はふたたび撒かれてしまうのだろうか。おばちゃんの姿は細い路地の影に消えて、むなしく帰ることになるのだろうか。いや、僕の姿に気付いたとは限らない。おばちゃんの視力がそれほど良くないことに賭けた。間隔を百メートルまで広げ、なおも後をつけた。おばちゃんは歩みを速めるそぶりを見せない。しかし、頭の中では尾行者を撒くための計画を着々と築き上げているのかも知れなかった。

御池通の広い歩道を、よたよたと、危なっかしい足取りで進んでいく。河原町でも曲がらない。いったい、どこまで行くつもりだ。このまままっすぐ行ったら、僕の家の近くに出てしまう。

恐ろしい想像。おばあちゃんが僕の住むマンションに入って行く。僕が震えながら後をつけていくと、三階の、ちょうど僕の部屋の前で、足音が止まるのが聞こえる・・・・・・この想像は、怖すぎる。

ちょうどその時、大学院で同じ専攻のJ子から電話が掛かってきた。驚くほどタイミングが良い。
「もしもし? あのね、・・・・・・M上君が留学するらしいんだけど、・・・壮行会をね、」
M上君というのは、演習の授業で同じ斑だった友人だ。アメリカのメリーランド州に留学するそうだが、とりあえずその件は後回しである。僕はJ子の言葉を遮って、尋ねた。
「それよりさ、今、何してる?」
むこうは戸惑ったと思うが、時間がないので僕は一息にまくし立てる。
「三条大橋にいつも座っている乞食の人、いるでしょう? ・・・・・・あ、知ってる? ・・・そうそう、あの人を追いかけているんだけど。・・・・・・うん、追いかけてるの。来ない? 今、どこにいる?」
「今は・・・・・・家だけど」
「家って、どこだっけ?」
「三条と四条の間」
「ばっちりじゃないか。よかったら、来てよ」
少し考えてから、
「・・・・・・わかった。どこに行ったらいい?」
「寺町三条に着いたら、電話して」
まさかこんな簡単に来てもらえるとは思わなかったので、ちょっと驚いた。運命的なものを感じた。おばちゃんは寺町で曲がり、アーケードに入って行く。僕の家の方向ではない。とりあえず、胸を撫で下ろした。電話を切って、僕も寺町で曲がった。だが、そこにおばちゃんの姿は無かった。アーケードに停めておいた自転車に飛び乗って、走り去ったのだろうか。あたりを見回したが、それらしき自転車の姿もない。そもそも自転車の鍵を外す時間などを考えたら、その想定には無理がある。脇に曲がる道も存在しない。さては、左手の本能寺の境内に入ったか? 門は閉まっている。お店に入ったのか? 何のために? それはあまり効率の良いまき方とは思えない。

やがて僕の眼は、パチンコ店「オメガ」の地下駐輪場をとらえた。これ以外、考えられない。僕は銀行のATMの陰に隠れ、おばちゃんが地下駐輪場から出てくるのを待った。数分後。自転車を押して、問題のおばちゃんが姿を現した時の喜びは、言葉では言い表せない。

それにしても、前回はマクドナルドの前に停めてあったのが、いつのまにか地下駐輪場である。進歩している。さては自転車撤去の憂き目にあって、学習したのだろうか。それとも朝からパチンコに興じていたとか。

おばちゃん、そのまま寺町を下がると思いきや、逆に、僕のいる方向に向かってきた。僕は慌てる。なぜ、南へ行かないか? おそらく、人通りが多くて走りにくいからであろう。その上、考えてみれば寺町のアーケードは自転車通行禁止だ。頭の中で、おばちゃんの予想経路を描く。このまま御池を東に走って、橋を渡り、川端で右折。あとはひたすら南だ。少し先回りしようと、自転車を走らせた。けれどその予想は裏切られ、おばちゃんは河原町でいきなり右折した。僕は慌てて道路の反対側を南下。

人が多いので、おばちゃんを見失わないように苦労する。ねずみ色のジャンパーと、荷物を載せた荷台を、しっかりと眼に焼き付ける。御池のひとつ南、すなわち姉小路で左に曲がった。木屋町で右折したため、すぐに追いかけたが、見失った。慌ててダッシュをかけたとき、すぐ横におばちゃんがいるのに気付き、ぎょっとする。その時、おばちゃんの顔が見えた・・・・・・おばちゃんではなかった。お婆ちゃんである。六十歳前後といったところか。

僕はそしらぬ振りをして先を行き、少し離れたところで自転車を停めて振り返った。気付いているのか気付いていないのか。こちらを見ようとはしない。三条通りで曲がった。橋を渡る。ようやく、前回のスタート地点まで辿り付いたのだった。

期待を裏切らず、川端のサイクリングロードを南下してくれる。速度は、速い。J子に電話する。まだ、家を出ていないとのこと。とりあえず四条川端まで来てくれ、と頼む。しかし、おばあちゃん自転車はあっというまに四条川端に到達し、さらに前進を続ける。間に合うのか、J子? 

団栗橋で、信号が赤だった。おばあちゃんは律儀に自転車を停めた。これは助かる。こうやって毎回信号で停まってくれれば、J子もすぐに追いつけるかも知れん。と、考えたのは僕の甘さであって、何のことはない、目の前の車が通り過ぎたら、すぐに信号無視して突破した。

五条通でも、信号が赤。車の数が多く、さすがのおばあちゃんも足止めをくらう。J子から電話が入る。
「いま、どのへん?」
「五条川端の交差点」
「あ、ほんと? もうすぐ着くわ」
ふたたび走り出すおばあちゃん。J子は追いついてこない。走る走る。五条より南のサイクリングロードは街灯も無く、薄暗い。木々の間でおばあちゃんの姿を見失いそうになる。夜の帳を抜けて、僕とおばあちゃんの自転車は走る。五条を過ぎてから、さらに速度を増したようにも思える。あっという間に七条についた。

今回も九条の先まで行くとすれば、七条で曲がるか、さらに南の塩小路で曲がるかのどちらかである。かなり距離があったのではっきりと見えなかったが、七条大橋で曲がらず、まっすぐ進んだように見えた。そして僕も直進したが、どうやら間違っていたことに気付く。おばあちゃんの姿を見つけられないまま、塩小路橋まで着いてしまった。

僕は猛烈な勢いで七条まで戻る。だが、もう間に合いそうにない。橋は既に渡り終えているはずである。さらに悪いことには、七条から南に行く道は、幾筋もある。どれを使って南下するかは、おばあちゃんの気持ち次第である。無理だ。この状態から、おばあちゃんを見つけることなど、不可能と思われた。

いったい僕はJ子にどれだけ謝ったらいいのか。残念がるというより、怒るだろう。いきなり呼び出されて、鴨川沿いに数キロ走らされた上に、「ごめん、撒かれちゃった。また別の日に追いかけよう」なんて言われたら。線路の下をくぐって、深刻な気持ちのまま、あたりをうろうろする。おばあちゃんと偶然行き逢うという、微かな期待・・・・・・。

九条の手前の狭い道。建物の陰から、自転車が現れた。見覚えのあるジャンパー、後輪の上の荷台。その時、まさに世界は僕のために存在しているかのような気がした。よくよく考えてみれば、どちらも同じ速度で格子状の町並みを南西方向に向かっているのだから、ふたたび落ち合うことは、それほどの驚きでもない。

追跡劇は再開した。初めのうち、違う自転車を追いかけているのではないかという不安が胸を去らないでもなかったが、おばあちゃんが進んでいく道が前回とまったく同じであったため、次第に落ち着きを取り戻した。

そう、まったく同じ道なのである。逆にこれは、ものすごい驚きでもあった。なぜなら前回、おばあちゃんが突如として細い道に入り、それを突き抜けて大通りに出て、さらに再び路地に入って、という動きを繰り返したために、撒こうとしているのだと判断したのだ。だがどうやらこれらの細い道こそ、おばあちゃんの定常ルートであるようだ。

実際、撒こうとしているのなら、同じ道を選ぶわけがない。あるいはひょっとして、前回その道で撒いたことは記憶しておらず、たまたま同じ道で撒くことになったとか。その説明には、少し無理がある。やはり、おばちゃんはいつもこの道を使っていると考えるのが妥当であろう。細い道を好むのは、車や歩行者が少ないからと思われた。

焼肉屋の間を抜け、何々不動の前を横切り、前回、おばあちゃんを見失った曲がり角まで到達。
「ここで曲がったのか!」
と、ひとり納得する。その角で曲がったのか直進したのかが分からず、友人と二手に分かれて探したのだが、見つけられなかったのである。すなわち、そこから先は、初めての領域である。期待に胸が膨らむ。ものごとが先に進んでいるのを確認することには、言い知れぬ満足感がある。

おばあちゃんは、細い道を器用に選びつつ、西へ、西へ、と進んでいく。追いかけながら、僕は何度もJ子に電話をかけて、現在位置を説明する。
「八条と九条の間の細い道を走ってる。方角は西ね」
「九条っていうのは・・・線路より、南?」
絶望的な質問をするJ子。
「そうそう。線路の下をくぐってから、ずっと西に向かってちょうだい」
合流するのは諦めた方がいいかなと思いつつ、僕は答えた。

烏丸も、過ぎてしまう。どこまで西に行くつもりなのか。道が狭く、人通りも少ないので、尾行者としては距離を置かざるをえない。荷台だけが目印であった。おばあちゃんはさっきから一度も振り返らない。僕の存在に気付いていないのか、あるいは追いかけられていることなど気にしていないのか。

やがて、見覚えのある大通りに出る。九条通だ。J子との合流に、かすかな期待を抱く。
「近鉄の東寺駅なんだけど、今、どのへんにいる?」
と尋ねると、
「九条通を走ってるよ」
「そうなんだ!。なら、そのまままっすぐ。あ、もうすぐ東寺の五重塔の南だ」
期待通り、九条通をまっすぐ西に進んでくれる。みなみ会館の前を過ぎ、ライトアップされた五重塔に近づく。僕の認知空間の中で大げさに拡大されたおばあちゃんのシルエットは、黄土色の五重塔と絶妙なコントラストを描いていた。

ここでおばあちゃん、いきなり九条通の北側に渡る。ふたたび、僕を撒こうとしているのではないかという不安。だが、その不安に根拠がないことは、すぐに明らかになった。国道一号線が九条から分かれ出る交差点では、北側にしか横断歩道が無いのだった。それを忘れていた僕は、車道を強行突破するはめになった。悠々と北側を走り続けるおばあちゃん。南側にて、眼をこらしておばあちゃんの姿を追う僕。途中、おばあちゃんが横断歩道を渡って南に移ってきた時は、鉢合わせしそうになって困ったが、うまくやりすごすことが出来た。

さらに、西へ。いったいどこまで行くつもりなのだ。このまま大阪とか行かれたら、僕はどうしたらいいのだろう。たぶん、大阪まで行ってしまうことになるのだろう。

J子から電話。早く追いついてくれ。
「今、油小路ってところなんやけど。横断歩道が無くて、渡れへん。どうやって渡ったん?」
「どこか、適当に渡れる場所を見つけて」
「この道じゃなかったん?」
「いや、それで合ってる」
おばちゃんが細い道を通っていたのは、九条油小路の交差点に横断歩道が無いためなのかも知れなかった。

僕らの場所から油小路までは、およそ五百メートル。J子はかなり近くまで迫っているようだった。このままおばあちゃんが九条通を進んでくれれば・・・・・・という僕の願いはむなしく裏切られ、再び細い道に入られてしまった。

九条と西大路に対し、直角三角形の斜辺を作る細い道がある。ここに入っていったのだ。しかし、説明が大変なので、J子には西大路で曲がってもらうことにする。
「西大路だ。西大路で左折」
ところがおばあちゃん、西大路も突き抜け、そのまま直進して、細い道に入る。小さな用水路を渡り、右折。北に上がっていく。
「あー、上にあがってる」
と、さっきからつなぎっぱなしの電話に語りかける。
「西大路を上がったらいいの?」
「うん、そう」
電話を切ってから、しまったと思う。J子はまだ、西大路九条の交差点だろう。そこから上がったら、北に行き過ぎだ。戻ってきてもらいたいが、こんな細い道をどうやって説明したらいいのか。

その一方で、追跡劇もついに佳境に入ってきたのを感じる。先ほど南に下がって、ふたたび北に上がった。もはや、尾行者を撒く意志は無いのだという、確信めいたものがあった。だとしたら、明らかに無駄のある今の行動は、目的地まですぐであることを意味する。実際、自転車が停まった。僕も三十メートルほど後ろで停まる。ビニールをがさがさする音。生垣に遮られて、おばあちゃんの姿は見えない。あたりを見回す。住宅街。だが、高級住宅街ではない。戦後に建てられた、それなりに古い町並みだ。

J子に最後の電話をして、現在地を尋ねる。
「今、どこ?」
「西大路駅に着いちゃったよ」
「そうかぁ。なら、そこで待っててよ」
もはや、現在の場所を説明する自信が無かった。それに、今から来てもらっても、間に合わないと思われた。がさがさの音が止んで、おばあちゃんは家に入ろうとする気配。

僕は少しためらったが、数秒の思考の後、駆け寄っていた。何がそうさせたのか、よくわからないが、おそらく追跡を思い立たせたのと同類の思考パターンであろう。おばあちゃんは荷物を片手に、家に入ろうとしているところであった。そして問題の家は、幅の狭い、飾り気のない質素な建物。二階建てのアパートであった。自転車が何台も停められている。

「あの、こんばんは」
と声をかけると、僕が言い終わるのも待たず、
「大家さん、そこですけど」
眼で隣の家を指す。さりとて大きくない、一戸建ての家である。
「いえ。あの。あの、・・・・・・いつも、三条大橋におられますよね?」
単刀直入である。何の工夫も無い話し掛け方であった。だが、変に技巧を凝らして、いやな奴になるのがいやだった。素直に、自分の問題意識を語るべきであろう。おばあちゃんの顔から狼狽の色は読み取れなかったが、暗かったので致し方ない。だが、僕の問いを、あっけなく否定した。
「さぁ。知りません」
「あの、三条からずっと追いかけてきたんです」
「知りません」
ある程度、予想していた反応であった。なにしろ、シーツにくるまって乞食しているくらいの人だ。人に知られるのは、好まないであろう。そのまま、家に入ってしまった。時刻は8時半。ちょうど、ワールドカップの開幕戦が始まる時刻であった。部屋でテレビをつけるのだろうか。

おばちゃんが入っていったアパートを見上げ、僕は、少し後ろめたい気分だった。もっと、大きな邸宅を想像していたのだ。もちろん、昔話に出てくる老婆のように、稼いだ金を壺に貯め込んで、ケチな暮らしをしないとも限らない。あるいは、働こうと思えば働けるのに、乞食の方がいい生活が出来るから、あえて働かない、という見方も出来ないことはない。だが単純に、乞食はあまり儲からないと考える方が素直だった。

もちろん、借家に住んでいる以上、そこらへんのホームレスよりはマシな暮らしをしているわけだ。お金をあげるかも知れない通行人のひとりとして、相手がどの程度の生活をしているのか、知っておく必要があると、自分に言い聞かせた。
「千円くらいだな」
僕は勝手に値踏みした。尾行してしまったお詫びと、これから仲良くしたいという思いを込めて、金一封包んで明日あたり橋の上に挨拶に行こうと考えていたのだ。豪邸に住んでいたら一円、持ち家なら十円、段ボールに寝ていたら五千円。借家住まいのおばあちゃんに千円は気前良すぎるかも知れないが、身の上話も聞かせてもらう心積もり、その程度の出費は仕方あるまい。

そんなことより、西大路駅で待っているJ子を迎えに行かなくてはならなかった。あたりを見回して、アパートの場所を見定める。そして、駅に向かう。

実はJ子は自転車で走っているふりをしつつ、家でポテトチップスを片手にテレビでも見ているのではないか、とずっと考えていた。それはかなり愉快な想像だったのだが、駅にはちゃんと、J子の姿があった。J子の方でも似たようなことを考えていたらしい。
「本気で、試されているのかと思ったよ。後ろから車で追いかけてきて、観察してんのかと思ってた」
それはそれで、面白そうだ。もうひとり協力者がいたら、J子を尾行してもらってもよかったかも知れない。
「それに、おばあちゃんがこんなに速いとは思わんかった」
「だよね」
まさに、あの『速さ』こそ、おばあちゃんの第一の特徴である。
「すぐに追いつくかと思っとったんやけど」
と、J子は述懐する。おそらくJ子がこの報告文中で果たす役割は、おばあちゃんの速さを強調することに尽きるであろう。
「西大路駅で待っとってって言われた時は、ほっとしたね」
可哀想なことをした。突然呼び出され、まさに災難以外の何ものでもない。J子は早く帰りたかったのかも知れないが、やり残したことがあった。
「おばあちゃんの自転車に、手塚太郎シールを貼っとかなきゃならん」
そんなものを用意していたわけではないが、色紙とセロテープで作って、記念に貼り付けておきたい。東京タワーの壁に落書きをする高校生なみの発想であったが、その思いつきはなかなか意義があるものに思われた。近くのファミリーマートでセロテープと、色付きのポストイットを買い、おばあちゃんのアパートに戻った。

「追いかけてしまって、ごめんなさい。これからも頑張ってください。」と書いて、チェーンケースの下の、目立たない場所に貼り付けた。J子も何か書いて、シールにして貼った。

帰り道、実はJ子は昔からおばあちゃんをくわしく観察していたことを聞かされる。
「・・・・・・お金をいつも重ねて置いてるけど。あの方が、可哀想に感じられるんかな」
言われてみると、そのように置いていた気もする。僕はそこまでじっくり見たことは無かった。つくづく自分の観察力の至らなさを思い知らされたのであった。

***********************

明けて六月一日。土曜の午後の三条通は、これでもかという程の人、人、人。その流れの中に、あいもかわらず乞食のおばあちゃんはうずくまっていた。いつもと同じシーツにくるまって、いつもと同じ場所。昨夜の尾行にも関わらず、仕事場に出てきてしまっているところに、おばあちゃんの生活の逼迫を垣間見たように思った。

前にかがみこんで、千円札を差し出す。
「ありがとうございます」
しゃがれた声で言って手を伸ばした時、毛布が少し、はだけた。その隙間からぐっと覗き込み、
「あのう、昨夜お会いした者なんですけど」
顔を近づけた時、匂いのきつさに驚く。それだけでも、おばあちゃんの貧窮を示す充分な説得力があった。
「ずっと家まで追いかけて行った者ですけど」
顔の下半分を隠すマスク越しに、困惑した表情を見せた。
「ああ」
と、短くうめく。
「昨夜はどうも、申し訳なかったです。もっと大きな家に住まれているかと思ったんですよ。それで、確かめたくなって」
「そんなお金があったら、こんなところにいませんよ」
豪邸に住んで乞食をするか、中くらいの家で働かずに暮らすか。たしかに僕も、後者を選ぶかも知れない。
「追いかけられていること、気付きませんでした?」
「いえ、全然」
尾行者として、これに勝る褒め言葉はない。むこうは褒めてるつもりなど無いだろうが。
「一年前にも追いかけたんですけど、その時も気付きませんでした?」
「いいえ。泥棒とかしたわけじゃないですからね。誰かに追いかけられているなんて、夢にも思いませんよ」
悪いことはしていない、という点を強調する。
「細い道に入られたりするから、撒かれているのかと思いました」
おばあちゃんは首を横に振った。
「おいくつですか?」
と尋ねると、
「六十三です」
「京都は、いつ頃から?」
「四年前です」
まるで検事みたいになっている自分がいやである。どこまで聞いていいものやら。
「僕は5年前から京都にいるんですけど。ずいぶん昔から、ここに座っているなぁと思って」
頷くおばあちゃん。
「京都の前は、どちらから?」
マスクの裏で、口をつぐんだ。身元までは、知られたくないのだろう。僕のことを、興信所か何かと思っているかも知れない。
「ご家族は、いらっしゃらないんですか?」
「いません」
そのまま黙ってしまうので、僕は話題を変えた。
「朝から晩まで、大変ですね」
「他に、出来ることが無いですからね。でも、生きていくためにはね。私にはこれしかないから。・・・・・・最低の仕事ですよ。本当に、最低」
しきりに自分を責めるおばあちゃん。
「そんなこと、ないですよ」
と言ってみたものの、その先が続かない僕。たしかに、生産性に乏しい仕事であることは間違いない。だが、誰にも危害を加えないという意味で、最低ではないと思うのだが。過去の仕事も聞きたくなったが、やめておいた。聞いても、教えてくれないような気がした。代わりに、現在の生活について尋ねることにした。
「ここに座っていて、警察の人は、何も言ってこないんですか?」
「初めは言われたけどね」
「今はもう?」
「誰にも迷惑をかけているわけじゃないしね」
「ヤクザの人は?」
「それは、ちゃんと・・・」
と、語尾を濁した。どうやら“ちゃんと”、お付き合いしているようだ。法の網目の及ばぬところ、ヤクザの手を借りなければ維持できない秩序が、たしかに存在するのだ。
「こうして座っているとねえ、親切な人も、いるんですよ。寒いやろ、ってねぇ。毛布をくれたりする人がいてね」
おばあちゃんの方から話を切り出す。もっと頑なな対応を予想していたから、意外だった。おばあちゃん、実は寂しかったのかも知れない。近くに身内もいなそうだし、近所の人にも生業を隠す手前、それほど話をしてなさどうだ。
「ここもねぇ、知り合いの人が通ったりするんですよ」
「知り合いっていうと、ご近所の方?」
頷くおばあちゃん。
「ご近所の方には、このことを言ってないんですか?」
「言ってませんよ。大家さんに知られたら、追い出されてしまうし」
もしも僕が大家だったら、住人が乞食をしようが何しようが別に気にしないと思うのだが、実際に大家になってみないと分からないものかも知れない。
「でも、おしゃべりな人も、いるでしょう? だから、わざわざ遠くに家を借りてねぇ」
なるほど、それであんなに遠くに住んでいるわけか。おかげで尾行部隊はずいぶん苦労した。

「私はね、こんなふうになってしまうまで、人に施しをしたことなんて無かったからね。逆に今になって反省しているというか。もう、施しのできる身ではなくなってしまったからね」
「なるほど。たしかに、そうなってみるまでは、分からないものですよね」
見てきたことのように言う僕。
「僕だって、いつ乞食にならないとも限らないですからねぇ」
最近、その可能性を否定できないような気がしている。おばあちゃんは溜息交じりに呟く。
「こんなことになったのも、人に施しをしてこなかったからと思ってねぇ。でも今は、もらったお金を、全部使っているわけじゃないんですよ。神社にもね、寄付したりしているんです」
「お賽銭とか?」
「そう。お金というのは、めぐり巡ってくるものだと思うんです」
この話が本当かどうかは分からないが、少なくともおばあちゃんは神社に寄付することを良いことだと思っているわけだ。僕などは神社やお寺に寄付したところで、あまり人のためにはならないような気がするのだが、世代の違いだろうか。

「いつも、私のことを見てたんですか?」
と、尋ねてきた。
「いや。たまに、通った時に」
本人は、自分の有名さに気付いていないのかも知れない。
「昨夜は、いきなり声をかけられてね、どうしようかなと思って。何も悪いことしてないのに、後をつけられて。それで、相談したんですよ」
「誰にですか?」
「世話になっている人にね」
明らかな脅しであった。おばあちゃん、なかなかのやり手と見た。
「明日また来たら、放っておけ、って言われてね」
ヤクザの眼から見ると、僕がまた現れることは確実に思えたのだろう。読まれている。
「たかり屋さんかと思ったけどねぇ」
シビアな世界だ。乞食にたかる人間もいるわけか。僕からすると、まるで時代劇の世界である。
「あのね、近所の人に知られたら、追い出されてしまうの。だから、言わんで欲しいの」
おばあちゃんはさっきの言葉を繰り返した。僕がたかり屋ではないと知った今、一番の心配はそれらしかった。
「大丈夫、言ったりしませんから」
「そうですか」
少し、安心した様子。かくして僕は、報告文中に具体的な住所を載せられなくなった。おばあちゃんは落ち着いた口調に戻って、付け加えた。
「千円をいただくなんて、今日、初めてのことですよ」
「おばあちゃん、いつも、帰られる時間が早いですよね。もっと遅くまでやっていたらいいのに。夜の方が、人通りが多いんじゃないんですか」
なぜかアドバイスまでしてしまう。だが、おばあちゃんは黙って首を横に振った。不良少年に蹴られたりしたこともあるのかも知れない。

三条通は人通りが多い。予想していたことだが、知り合いが通りかかった。学部時代にクラスメートだったOちゃんである。呼び止めて、
「すまんけど、百円恵んでくれない?」
Oちゃんは笑いながら百円出してくれた。
「今、暇か?」
「どちらかというと、暇」
「そしたら、少しだけ、待っててくれん?」
Oちゃんにそう言って、おばあちゃんに挨拶してその場を離れると、友人に電話をかけた。たまたま友人たちが何人かで映画を見に行くと言っていたのを思い出したのだ。僕の頭の中で、ひとつの計画が描かれていた。友人たちと合流して、Oちゃんも加え、お金をあげる人の行列を作るのだ。「行列のできる乞食」。違和感あふれる行動によって、周囲の眼をおばあちゃんに向けさせる。思い立って、お金をあげようという人も出てくるかも知れない。それどころか、「おばあちゃんにお金をあげると幸せになれる」、みたいな噂が広まれば、なおさら面白い。ところが友人たちは遠くの映画館に行っていて、来ることが出来なかった。「行列の出来る乞食」は、日を改めて行なわれることになった。

*********************

翌日は、六月二日の日曜日。長旅に付き合わせたJ子にも、おばあちゃんに会っておいてもらいたいと思い、連れ立って三条大橋を訪れた。途中、一昨日のことを思い出しながらJ子が言う。
「あれだけ速いんだから、他の仕事も出来るんじゃないのかなぁ? それに、毎日出てきて、根気があるし、その意気込みを別の仕事に向けたら・・・・・・」
「でも、あの年齢で新しい仕事を見つけるのって、大変だと思うよ」
橋のたもとに自転車を並べて停めた。僕はすぐにおばあちゃんの横に座り込んだが、J子は遠慮して、斜め後ろで欄干にもたれて立っている。
「おばあちゃん、あのね、ちょっとした計画を立てたんだけど、聞いてもらえますか? 今度ね、行列を作りたいんですよ。おばあちゃんにお金をあげる人の行列」
突拍子もない申し出に、おばあちゃんは混乱している様子。しばらく考えてから、
「私ね、生活が大変だからね、そうやってお金をもらえるのは嬉しいけどね」
と、了承してくれたのか、してくれていないのか、よく分からない口調で答える。僕が置いた百円玉を手に取りながら、
「男の方が気前いいね。女の人は、ケチくさいでしょ」
「おい、女はケチだって言われてるぞ」
と、J子に声をかける。
「お友達?」
「あ、はい」
J子もおばあちゃんの横でかがみ、百円玉を差し出した。
「ありがとう」
礼を言ってから、どんな人がお金を置いていくかについて、話を続ける。
「キリスト教の人も、親切ね。そこに教会があるでしょう?」
「たまに、炊き出しもしてますよね」
「昔はここまで持ってきてくれたんだけどねぇ。こんな格好じゃぁ、もらいに行くわけにも行かないし」
たしかに、シーツにくるまったまま教会に現れたら、かなり不気味だ。
「京都の人は、ケチくさいね」
「どこが一番もらえますか?」
おばあちゃんの過去を探る意志が丸見えである。少しの沈黙があってから、
「・・・地方から出てきた人が、よくくれるわねぇ」
と、やんわりとかわされた。
「この前、桜まつりがあったでしょう? あのときは、たくさん貰えたんだけどねぇ」
「ここじゃなくて、清水寺の前とかに座ったらいいかと思うんですよ。それか、四条大橋とか。観光客が多いと思うんですけど」
「四条大橋に座ったこともあるけど、交番があるでしょう。すぐに怒られて」
そして三条大橋の反対側を指差して、
「初めは向こう側に座っていたんだけどね、今はここでやらなくちゃならんの」
「警察に言われたんですか?」
「警察じゃない」
「じゃぁ、世話してもらってる人に?」
「そう」
細かい指定があるようだ。そろそろ去り際かと考えて、立ち上がる。最後に、念を押された。
「私の家のまわりで、いろいろ聞いてまわったり、しないでね」
「それは、しませんよ。そんなことして、僕にどんな得があるんですか」
挨拶して、おばあちゃんと別れた。少し離れてから、J子が恥ずかしそうに言う。
「話すだけで、すごく目立っちゃうんだね」
僕も思っていたことだが、話している間、通行人からじろじろ見られていたのだ。乞食のおばあちゃんがあまりにも風景に溶け込んでいるがゆえに、それに話しかけるという行為に違和感を覚えるのだろうか。周囲の眼をおばあちゃんに向けさせるためには、行列まで作る必要もないかも知れなかった。

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℃ Taro Tezuka (2002.6.4)