【体験報告】
アンコールワット前で絵ハガキを売る

 恋人とふたりでカンボジアを旅行した時の話。

 内戦が終結して十年の月日が流れたカンボジア。
 ゲリラに襲われることはなかったが、物売りの子供たちには何度も襲撃された。
 アンコールワットをゆっくり観光させてもらえない。
「フィルム、ヤスイヨ!」
「オニーサン、カッコイイ。ジュース!」
 最初は褒めてくれるのだが、黙って通りすぎようとすると、
「ワタシ、カナシイ…」
 悲しそうな顔をするのはまだかわいい方で、気の強い女の子になると、
「オニーサン、カッコワルイヨ」
「オカマ!」
 などと罵声を浴びせかけてくる。しまいに、
「ニホンジン、ワルイ!」
 と、わが民族の罵倒まで始める始末。まったく、困ったものである。

 子供たちはしつこく追い掛けてくるが、遺跡の中まではついてこない。警察が遺跡内での物売りを禁止しているのだ。そのかわり、警官が物売りに来る。
 警察手帳のカバーを差し出された彼女は、喜んで買っていた。さらに、警察バッジもいらないかと言われ、それも買っていた。警官は嬉しそうに去っていき、その後は静かに遺跡の見学をさせてもらえた。
 子供たちがいない分、遺跡の静謐さが印象に残るというのは、うまくできているというか何というか。
 樹木に覆われた石造寺院の中を歩いている時、彼女が珍しく神妙な顔をして言った。
「なぁなぁ、たろうくん、」
「なに?」
「私らもフィルムとかジュースとか、売ってみーひん?」
「は?」
「観光客に売ってみーひん?」
 僕はあきれて、
「あのね、ああいうのはね、全部ヤクザの人たちが仕切っているんだよ。ショバ代払わずに売ったりしたら、すごく怖い目に会うのよ。わかってます?」
 怖い顔してたしなめると、彼女はしゅんとしてしまって、
「そーなんやろかあ? カンボジアにもヤクザ、おるんかなぁ?」
  もちろん、カンボジアにだってヤクザがいるに決まっている。しかも、戦車やミサイルを持っている重武装ヤクザだ。最近までゲリラ戦していた人たちが、ヤクザに転職してるはずなのだ。
 僕が頑固に反対したため、彼女はあきらめた。

 やがて、日が西に傾いた。
 アンコールワット横のカフェテラスにてココナッツジュースを飲みつつ休息していると、ふたたび物売りの子供たちに囲まれてしまった。カンボジアはフランス領だったためか、やたらオープンカフェが多い。だが、それは物売りのガキどもにとっては格好の猟場である。僕らはゆっくりしたいというのに、なぜか店員は子供たちに注意しない。
 押し寄せた子供は十人近く。わぁわぁ騒ぎ立てるので、落ち着いて飲めない。
 そんな野蛮なガキどもに混じって、ひとり、小学校高学年くらいの落ち着いた女の子がいた。他の子供のようにやかましく言い寄ってくることはなく、黙って絵ハガキを差し出すだけで、気品すら感じられる。八重歯がかわいらしい。
 僕はその女の子に訊ねた。
「きみたち、そのフィルムって誰から買ってくるの?」
 少女は微笑み、屈託のない笑顔で答えた。
「市場で買ってくるんです」
「いくらで?」
「ひとつ3ドル。それを3ドル50セントで売ります。だから50セントの儲けです」
 正直に教えてくれたが、かなりの儲けである。カンボジアで50セントといえば、食堂で二回、めしが食えるくらいだ。
 しかも、ヤクザにショバ代を取られているわけでもないらしい。
 カンボジアのヤクザは何をしているのだろうか。ガキどもには甘いのか? 
 だが、そういえば、大人の物売りを見かけない。さきほどの警官くらいである。
 つまり、売れる頻度が低すぎるのではないだろうか。実際、これだけたくさんの物売りの子供がいたら、自分の絵ハガキを買ってもらえる可能性はごくわずか。ヤクザが目をつけるほど、収益のある商売ではないのだろう。
 赤い夕日が寺院群の向こうに沈みかけていた。
 柔らかな光が、遺跡の外壁に刻まれたレリーフに繊細な陰影を浮き立たせている。クメール王国の幻影。初めて見る光景なのに、なぜか懐かしさを誘う。
 僕は恋人を見つめた。彼女は僕を見つめた。
「やってみようか」
「うん」
 彼女は大きくうなずいた。
 近くの売店でファンタ1、コーラ1、ミネラルウォーター1、絵ハガキセット1を購入した。
 そして、商売にふさわしい場所を探した。
 アンコールワットは周囲を堀に囲まれているため、見学者は正面に架けられた長い石橋を渡って出入りする。橋のこちら側は大きな広場になっていて、屋台が並んでいる。荷台付きバイクタクシーである“トクトク”の駐車スペースにもなっている。物売りの子供たちがたむろし、襲撃の機会を狙っているのもこのあたりだ。石橋のまわりに子供たちの姿がないのは、警察が見張っているからだろう。
 僕らは橋のすぐそばまで行って、観光客を待ち構えた。子供たちよりも前に出られたのは、警察が油断していたためだろう。
 最初に橋を渡ってきたのは、カンボジア人の親子連れだった。美しい夕焼け空の下を、歩いてくる。
 すかさず、両側から走り寄る日本人二名。ジュースと絵ハガキを差し出し、
「ジュースです! どーですか?」
 お父さんは目を丸くし、僕ら二人を交互に見つめた。
「あの、絵ハガキもあるんですけど、いかがです?」
 熟練した物売りの子供たちに比べると、押しが弱い。軟弱である。あまりにも困惑しているので、僕はつい笑ってしまった。すると、お父さんもニヤリと笑った。緊張感が切れて、それ以上売り込むことができなくなった。
 親子連れは行ってしまった。
「笑っちゃだめなんだよ」と彼女。「すんません」と僕。
 だが、まだ客はいくらでもいる。気を取り直して、再チャレンジだ。
 今度は白人の男性三人組がやってきた。同じように駆け寄って、
「絵ハガキ、どぉですか、二千リエルで……」
 リエルはカンボジアの通貨単位で、四千リエルが1ドルに相当する。二千リエルだと、子供たちが売っている値段に比べて、格安である。だが、外人たちは腹をかかえて笑うだけで、買ってくれなかった。
 そういえば、子供たちは帰り道の観光客に対しては、あまり熱心に襲撃していない。買ってくれないことを、分かっているからだろうか。
 続いて橋を渡ってきたのは、カンボジア人女学生の一団。歩き方が優雅で、良家のお嬢さんたちという印象を与える。現代日本の女子高生には見られない上品さがある。あえて言うなら、大正時代の女学生といったところだろうか。
 僕らが「ジュース! ジュース!」と叫びながら駆け寄ると、おびえた顔をして、身を縮ませた。そしてお互いに顔を見合わせ、そのまま足早に行き去った。
 現地人に売るのは難しいと判断した我々は、今後は外人観光客にターゲットを絞ることにした。日本人観光客がいたらぜひ声をかけてみたかったのだが、あいにく近くに見当たらない。
 橋を渡ってきたのは、男二人、女一人の白人三人連れ。女がひとりで先頭を歩き、男たちが後をついていくのを見ると、いったいどういう関係なのだろうと想像を巡らしてしまう。
僕は迷わず女性に近づき、ジュースを差し出した。
 冷たく無視されることを覚悟していたのだが、柔和な微笑みとともに断られた。まさに「あしらわれた」という感じだった。
 なるほど、物売りに対してはこれくらいの毅然とした態度で挑むのが良いのだろう。さすがだ。外人から学ぶことは多い。
 次の観光客を狙い、身構えている僕らのもとへ、痩せた女の子が二人、近づいてきた。薄汚れた服を着て、薄汚れたビニール袋を握り締めている。足は裸足だ。袋の中には空き缶が三つ。
 つかんだら折れてしまいそうな細い腕を差しのばし、
「缶をください」
 と頼んでくるのは、遺跡掃除のボランティアというわけではなさそうだ。リサイクル業者にでも売るのだろう。
「オーケー、ノープロブレム」と引き受けてしまった。販売用の商品だが、観光客に売れなかった場合には、あげることにした。物売りのように強引でないところ、とても好感が持てる。
 やがて、日が落ちて、あたりはすっかり暗くなってしまった。
 ジュースも絵ハガキも、まだひとつも売れていない。僕は緊急営業会議を召集し、提案した。
「自分たちだけで声かけるより、観光客が子供たちに囲まれているところに割り込む方が構図的におもしろくない? そっちの方が面白がって、買ってくれそうじゃない?」
「そーしよう!」
 彼女はおおいに賛成してくれた。
 ふたたび、橋のたもとで待機。背の高い白人男性三人連れがこちらに渡ってきた。獲物を待ち構える豹のように、僕らは男たちの動きを見守る。
 白人たちは僕らの前を通り過ぎ、トクトクや屋台の並ぶ広場に入っていった。子供たちはなかなか近寄っていかない。こいつらはきっと買ってくれないだろうと、判断したのだろうか。
 男たちは三手にわかれ、それぞれがトクトクの値段交渉を始める。旅馴れている感じである。やがて、ひとりが交渉を成立させたらしく、一台のトクトクの前で再結集した。
 すると、最後のチャンスを逃すなとばかり、子供たちが集まってきた。
 外人たちはそれを無視。僕らはその人だかりの中に割り込んで行って、
「二千リエルです。どうですか?」と絵ハガキを差し出した。
 白人は、きょとんとした顔で僕らを見つめる。そして、にやりと笑ってくれた。
 子供たちは、目を輝かせる。どうやら、ウケたらしい。怪しい日本人男女に大注目である。
 ひとり、やけに元気のよい女の子が僕らと白人の間に割り込んで、
「二千リエルネ!」と叫んで僕の手から絵ハガキをひったくった。それを白人に差し出して、
「ハイ、1ドル、ヤスイヨ」
 かわいらしい。商売の基本を分かっていらっしゃる。
 女の子はカタコトの日本語で言ったのだが、白人も動作からおよその意味を察し、笑っていた。
 それでも彼らは絵ハガキを買ってくれることなく、(1ドルで買ってくれたら面白かったのだが)、トクトクに乗って去っていった。
 僕らの物売り行動を面白がって、たくさんの子供たちが集まってきた。十人、二十人。まるでアンコールワット中の子供たちが集結したみたいだ。
 やけに嬉しそう。クメール語で何か騒ぎながら、僕らのまわりをぐるぐる走り回る。
 以前、僕らが絵ハガキを買わなかったために悪態をついていた女の子も、抱きついてきた。ずいぶん気持ちの切り替えが速い。
 カメラを貸してくれと騒ぐので、渡すと、大騒ぎになってぱちぱちと撮りまくっている。カンボジアの子供たちはカメラが大好きだ。十枚ほど撮られてから、無事に回収することができた。
 子供たちにもみくちゃにされ、まるでおしくらまんじゅうだった。
 大混乱の中、髪を綺麗に刈り揃えた気の強そうな女の子が近寄ってきて、唇をとんがらせて言う。
「アナタ、オカマネ!」
 だが、その友人らしき女の子が笑いながら、
「カッコイイ!」
 もう、何が何だか分からない。
 騒ぎを聞きつけて、バイクタクシーの運転手をお願いしていたロンさんがやってきた。もし彼が来てくれなかったら、僕らは一晩中もみくちゃにされていたかも知れない。
 三人乗りバイクの後ろにまたがっても、子供たちは僕らを離そうとしない。容赦なくくすぐり続けるので、バイクから落ちそうになる。
 ロンさんがエンジンをかけて、勢いよくその場を離れた。
 夕闇を切ってバイクは走る。木立とお堀の向こうに、黄昏の光に包まれたアンコールワット。静かで、信じられないほど美しい光景。
 そのまわりでたくさんの子供たちが学校にも行かず、物売りに明け暮れていることが嘘のようだ。

℃ Taro Tezuka (2004.10.18)