明治期の京都


麗  静  雅  寂 

「京都」と聞くと、平安時代や室町時代の華やかな
貴族文化・町衆文化だけを思い浮かべてしまう人が多いのでは?。

けれど京都は千年の歴史を誇る都。鎌倉時代も江戸時代も、そして
明治時代においても、この街は綿々と歴史を紡いできたのです。

僕は特に明治時代の京都に興味があり、友達に京都の案内をする時は
明治時代の史跡も紹介できるよう試みています。

ここでは僕のつたない知識の中から、明治期の京都の有様を再現してみます。


二条城大広間

二条城大広間
大政奉還はここで行なわれました。

幕末の京都は政治の中心
NHK大河ドラマ「徳川慶喜」によって広く知られるようになりましたが、
幕末の京都は日本の政治の中心でした。
全国の倒幕勢力が連絡を取り合い、
次代を担う活動家たちが暗躍していました。
将軍徳川慶喜もまた、ほとんどの時間を京都にて過ごしました。
明治の“首都移転” 明治維新後、日本の首都をどこにするかで論争がありましたが、
結局天皇は東京に移ることに決定。天皇が移るということは、
公家屋敷や各藩の京都屋敷も取り払われるということを意味し、
これは京都経済にとって大きな打撃でした。
「第二の奈良になるな」 公家や大名に去られた京都の町人たちは、
自分たちの手で京都を建て直そうと考えました。
その時のスローガンが「第二の奈良になるな」。
貴族が去って原野に帰った平城京のようにはなるまいぞ、
という心意気を示したものです。このスローガンのもと、
新しい産業の導入が積極的に勧められました。
工業都市・京都 京都には都市としての長い歴史によって培われた
豊かな社会資本と高い技術集積がありました。
大阪が商業都市、東京が政治都市として発展したとするなら、
京都には工業都市として発展したという側面があります。
これらの社会基盤を活かし、最先端の近代産業が京都に導入されました。
島津製作所などは、この時期に京都で事業を始めました。
琵琶湖疎水

現在の琵琶湖疎水
今も豊かに
水を湛えています

琵琶湖から運河をひく
琵琶湖から運河をひいてくることは、
水の乏しい京都郊外の農民にとって、長い間の念願でした。
さらに、運河の開通は琵琶湖と京都を直結させ、
経済効果は計り知れません。
当初は夢物語だった琵琶湖疎水は、
西洋の技術の導入によって、俄かに現実味を帯びてきました。
田辺朔郎と北垣国道 東京工部大学の学生であった22才の青年、田辺朔郎は、 卒業論文として琵琶湖疎水の建設計画を執筆。
これが当時の京都府知事・北垣国道の目に止まり、
田辺を全工事の総監督として抜擢しました。
引き受けた田辺もすごいが、請け負わせた北垣もすごい。
二人の出会いによって、琵琶湖疎水建設計画は動き出したのです。
琵琶湖疎水

トンネル出口
疎水は三条の蹴上まで
地下トンネルを流れます

世界で二番目の水力発電
疎水建設の工事が進む中、
アメリカで世界初の水力発電が成功したというニュースが飛び込んできました。
建設チームはさっそくこの最新技術を取り入れ、
疎水出口に水力発電所を設けることを計画。難工事の末、
疎水は完成し、同時に京都は世界で二番目の
水力発電所を手に入れたのです。
伏見

伏見の賑わい
大阪と河川で直結する 伏見は
独自の市街を形成していました。

日本初の電気機関車
疎水の水力発電は工場の動力源としても使われましたが、
日本で最初の電気機関車を走らせたことも画期的でした。
区間は国鉄の京都駅から伏見の油掛まで。
その後、延長されて、電気機関車は市内を縦横に走ることになります。
平安神宮と岡崎公園 1894年、平安建都1110年を記念して、盛大な式典が執り行われました。
これを記念して建てられたのが平安神宮であり、
会場は整備されて岡崎公園となり、現在では美術館や博物館が立ち並ぶ、
京都の一大文化センターとなっています。
時計台

京都大学時計台
今も京都の時を
刻み続けています

京都大学開設
京都大学が設立されたのもまた、明治時代のことでした。
開校に際しては3万人以上の市民が見学に訪れたといいますから、
当時の京都の人々の教育に対する関心の高さがうかがえるというものです。
学生の街・京都の素地は、この頃から存在したと言えるでしょう。
ちなみに、日本で最初に小学校が設置されたのも明治期の京都でした。
京都を支える こうやって見てくると、明治の人々の努力が無ければ、
現在の京都の姿はなかった。
けれど、明治の人だけの力ではありません。
すべての時代の人々の努力の上に、現在の京都があるのです。


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