気になったままにしておくのも何なので、
ある日思い切って建物(おそらく事務所)の扉を叩いてみた。少し緊張する。
どんな人がこの会をやっているのだろうか。
玄関に姿を見せたのは、物腰の柔らかい、70才くらいの学者風の方だった。
田中さんとおっしゃって、日本ローマ字会の事務局長をなさっているという。
ローマ字会の活動に興味があるのでお話を聞かせてもらえませんかと頼むと、
こころよく応接間に通してくれた。
資料を持ってきてくれて、説明をしてくれる。その説明は僕をかなり驚かせた。
「ローマ字会は日本語のローマ字化を目指して活動しています」
日本語のローマ字化。突然言われても、なかなかイメージできない。
ひらがなも漢字もなくして、すべてローマ字にするということだろうか。
僕が当惑しているのを見て、田中さんは本棚からローマ字で書かれた教科書を持ってきてくれた。
「この本のように、日本語がローマ字表記で表されることを目指して活動しているのです」
すごく突拍子もない目標に思える。
だが、たとえばフィリピンやベトナムでは他の東南アジア諸国と違ってアルファベットを文字として使っている。
さらに日本でも終戦後、占領軍は日本語をローマ字化することを考えていたらしい。
不可能な話ではないのかも知れない。
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事務局長の田中さん
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日本ローマ字会自体は明治18年(1885年)、
貴族院議員の田中館愛橘らによって結成された。
すでに100年以上の歴史を持つ団体である。
会員には大学教授などが多く、それぞれ自分のの専門分野について、
ローマ字で教科書を作っていたりするらしい。
「現会長は国立民族学博物館の館長もされた梅棹忠夫先生です」
梅棹先生なら僕も名前だけは知っている。ちょっと驚いた。
「梅棹先生は『知的生産の技術』という本の中でひらがなタイプライターについて触れられているのですが、
それも当会会員の先生が発明されたものです」
そのタイプライターではひらがなとローマ字を打つことができ、
梅棹先生は強調したい部分をローマ字で打つことにしているそうだ。
たとえば、
『きょうはとても TANOSIKATTA です』
という風に。 |
「当会は戦争中、随分弾圧を受けましてね、牢屋に入れられた人もいるんですよ」
やまと言葉を廃止し、敵国語を広めようと試みる団体と思われ、危険視されたのだ。
梅棹先生も危ない目にあっておられるという。
それでもなお自らの志を曲げなかった人々がいたことに、僕は一種尊敬の念を抱いた。
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日本ローマ字会会誌
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「私の恩師は斎藤強三先生とおっしゃいまして、戦争中は官憲に目をつけられていました」
「終戦後は逆に、日本風のローマ字表記(『日本式』といって、戦前に定められたもの)を
残そうと活動していましたから、MP(米軍の憲兵)に国粋主義者と思われて、追いかけられたそうです」
日本ローマ字会は今でこそ文部省の認可を受けたしっかりとした団体だが、
当時は皆、命がけで活動を行なっていたのである。
物理学者で随筆家の寺田寅彦も会員だったそうだ。これにも驚く。
京都を中心に活動をなさっているのですか、と質問すると、
「日本ローマ字社という団体もありまして、こちらは東京で出版を中心に活動をしています。
私たち日本ローマ字会は京都を中心に各種事業を行なっています。
もとは一つの団体でしたが、かたや出版、かたや事業ということで分かれたのです」
先ほど田中さんに見せていただいたローマ字で書かれた書籍は、日本ローマ字社が出版したものであった。
「カナモジ会や、かなもじ会という団体もあるんですよ」と田中さん。
カナモジ会も文部省管轄の財団法人で、会員数は約500人。
かなもじ会は実は田中さんたちが最近になって再興させた会で、京都を中心に活動している。
いずれも日本語表記のカタカナ化、ひらがな化を目指して運動を展開している。
田中さんは“かなもじ会”の活動も同時にやっているわけで、
日本語を残す運動と残さない運動、お互いに矛盾するのではないかという質問に対しては、
こう答えてくれた。
「ローマ字会は日本語を欧米風にするために活動しているのではありません。
むしろ、日本語をたいせつにしたいという気持ちが会員を動かしているのです」
それはどういうことか。
「日本語は話し言葉と書き言葉の隔たりが著しい言語です。
たとえば『ふきょう』と言っただけでは不況のことなのか、それとも布教や不興のことなのか分からない。
同音異義語が多すぎて、文字にして説明しないと人に自分の意志を伝えられない。
こんなことではダメだと思うのです」
なるほど。言われてみれば、今すぐすべての日本語をローマ字化したとしたら、
同音異義語の区別がつかなくなり、大きな混乱が起きることだろう。
たとえば田中さんに見せてもらった数学の教科書にしても、
「整数」と「正数」の区別が出来なかったら、困ってしまう。
そのままローマ字化するだけではダメで、新しい言葉を考えなくてはなるまい。
ローマ字会の方々に言わせれば、言葉は口で話しただけで通じるべきなのである。
「日本語の表記を書きことば主体から話しことば主体にする。これが私たちの最大の目的です」
ローマ字会の活動は単に文字を変えるというだけでなく、
日本語そのものを変革していくという高い目標を持っているのである。
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普段なにげなく使っている日本語について
これだけいろいろのことを考えている人がいることに感銘を受け、
僕自身ももう少し考えてみなくてはならないなと思うようになった。
自分の言語について考える、よい機会になったと思う。
取材に答えてくださった田中さん、並びに社団法人日本ローマ字会に感謝したい。
どうもありがとうございました。
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