【体験報告】
ローマで道に迷っていたおじさん

 冬のローマは寒い。南欧のイメージからは程遠い、冷たい風が吹き抜ける。
 凛とした大気の向こうにサンピエトロ寺院の大伽藍が聳え、広場にはローマ時代にエジプトから運ばれてきたというオベリスクが佇む。
 現代のローマは古代ローマ帝国よりもルネッサンスの頃の面影を色濃く残した街だと思う。街路は石畳で舗装され、大通りから一歩わき道に入れば古い石造りの家並み。
 学会での発表を終えた僕はインターネットカフェのeasy everythingでメールをチェックし、トリトーネ通りに面したカフェバーで夕食を済ませた。食事代は9ユーロ50セント。およそ千円。日本とさほど変わらない値段。だが、エスプレッソ一杯五十円には驚かされる。
 僕が10ユーロ紙幣を差し出すと、店員は「50セントはチップですね」と言って釣り銭をせしめていった。ノリが良いというか、図々しいというか。これがイタリア式ということか。
 宿のあるナツィオナレ通りに向かって静かな夜の街を歩いていると、
「ちょっと、すまないが」
 後ろから突然、声を掛けられた。
 振り向けば、背広を着た中年の男性。
「バルベリーニという場所を探しているんだが……」
 少し太めで、年齢は五十代くらいか。きちっとした服装からして、おそらく商用でローマに滞在中のビジネスマンだろう。
 さいわい僕は地図を持っていたため、広げて一緒にバルベリーニを探した。
 何のことはない、ここからすぐ隣の交差点だ。
「なんだ、このへんなのか」
 おじさんはがっかりしたように言う。
「何を探していたんですか」
「バルベリーニなら飲み屋が多いと聞いたんだが……。それほどでもないようだね。ローマというのは、ずいぶん寂しい街じゃないか」
 たしかに、と僕も思う。東京や大阪の夜と比べると、活気がない。ネオンもなければ、電飾もない。ティッシュ配りのお兄ちゃんやお姉ちゃんもいない。落ち着いた街、という印象を受ける。
「商用でスイスから来たんだが、ローマがこんなに静かな場所だとは思わなかったよ。田舎だね」
「スペイン広場に行ったら、賑やかだと思いますよ」
「ああ、スペイン広場。今日の午後に行ったな……」
 おじさんは胸ポケットから葉巻を取り出し、悠々と吸った。
「君は日本人かね? 日本は好きだよ。東京、大阪。どこから来たんだい?」
「京都です。大阪の近くの」
「ああ、知ってるよ。地震のあったところだね」
「いや、それは神戸です」
「そうそう、神戸だ」
「おじさんはどこから?」
「バーゼルさ」
「じゃぁ、ドイツ語圏ですね」
「イエス」
「チューリヒには行ったことがあります」
「おお、そうか。いい街だろう。君はどこに泊まっている? 私はテルミニ駅の近くなんだが」
「ナツィオナレ通りの安宿です」
「なるほど。もしよかったら、今から一緒に飲まないか。ビールをご馳走させてくれよ。ひとりで飲むのは寂しいからね」
 おじさんはにこりと笑って言う。
 せっかく誘ってくれたのだから、飲むのも悪くないか。
 旅先での出会いというのは、なかなか印象的なものだ。
 僕が了承すると、おじさんは通行人を呼びとめて尋ねた。
「このへんに、飲めるところは無いかな」
「その路地をまっすぐ行ったところに、バーがありますけどね」
「ありがとう」
 建物の間の細い路地も石畳。両側のクリーム色の壁に挟まれて、まるで中世の町並みを歩いているかのよう。
「日本人はどんな酒を飲むんだい? イタリア人やフランス人はワインをよく飲んでいるが……」
「伝統的には『酒』というのを飲みますが、若い世代にはビールが人気ですね。いや、若い世代だけじゃないな。四十代、五十代もビールが多い」
「そうかい、そうかい」ビール圏出身のおじさんは嬉しそうに笑った。
 路地を数十メートル入ったところに、ネオンが光っていた。壁を切り取って作ったような入り口。こんなところにバーがあるなんて、教えられなければ気付かないだろう。まさに穴場的な店。いい感じの店に連れてきてもらった。運がいい。
 ところが中に入って、まったく別の意味で驚かされることになった。
 薄暗い間接照明。ピンク色のネオン。
 露出度の高い服を着たお姉ちゃんたちが数人、カウンターに肘をついてタバコをふかしている。
 胸がでかい。普段女の子の胸になど目の行かない僕も、思わず釘付け。
 お姉ちゃんたちは舐めるような目つきで僕らを見る。
 僕はぽかんと口を開けて、立ち尽くしてしまった。
 まさか、ひょっとして、……売春の人たちですか?
 おじさんはお姉ちゃんたちには目もくれず、奥の部屋に入って、テーブル席のソファに腰を下ろした。
 細長い店で、手前がカウンター、奥がテーブル席というように分けられているのだ。間の仕切りは縄のれん。
 僕もおずおずとおじさんの向かいの席に座った。ソファはビロード張りだ。
 席につくなり、カウンターからお姉ちゃんが二人やってきて、それぞれ僕とおじさんの隣に座った。
 なるほど……。納得。
 なーんだ。
 拍子抜け。
 単なるスナックじゃないか。
 お姉ちゃんの接客付きの、スナック。
 「ビールを一杯飲む」といっても、こういう店で飲むつもりだったのか。
 さすが、ビジネスマンの発想は違うな。
 居酒屋のような場所を想像していた僕が甘かったよ。
 当然、お姉さんたちは売春婦などではなくて、店に勤めているホステスなのだ。服があまりにも挑発的なので誤解してしまった。
 僕の隣に座ったのは黒髪で背の高いお姉ちゃん。おじさんの隣に座ったのは気の強そうなブロンドで、年齢が若干高め。
「ビールふたつ」とおじさん。
「20ユーロになりますが」と、ウェイター。日本円にして二千円くらい。居酒屋で飲むより高いな。
 黒髪の姉ちゃんが媚びるような口調で僕に話しかけてきた。
「イタリアは初めて?」
「いえ、昔、ミラノに行ったことがあります。ローマは初めてですけど」
「あら、そう」
 お姉さんの顔がかなり濃いので、僕はつい訊ねてしまった。
「失礼ですけど、イタリアの方ですか?」
「ううん。私はパラグアイ」
 なるほど。イタリア人にも顔の濃い人間が多いが、南米人なら納得がいく。
「南米は一度行ってみたいと思ってるんですよ」
「あら、本当」
「ええ。旅行好きの知り合いが薦めてくれて……」
「あら、そうなの」
「ええ、はい」
 パラグアイの女の子は話下手だった。適当なあいづちを打つだけ。これでは話が続かない。どうして僕が話題提供しなくちゃならんのか。
 スイス人のおじさんが向かいから口を挟んできた。
「彼女はコンスタンツから来たそうだ」
 ブロンドの姉ちゃんがうなずく。
「コンスタンツ?」
「ええ。コンスタンツよ」
「それって、どこでしたっけ?」
「黒海沿いよ」
「あ、なるほど」そういえばそんな都市があった。「国でいうと…」
「ルーマニア」
 そうそう、ルーマニアだ。
 それにしてもやけに国際的なバーだ。しかし、日本でいえばフィリピン人の女の子と中国人の女の子が同じパブにいるような感覚か。ヨーロッパ人にとってはそれほど驚くことではないのかも知れない。
 ウェイターがビールを運んできた。
 泡のよく立った、うまいビール。
 喉を潤した。屋外は寒いが、隠れ家的なバーで飲むのは、うまい。
「彼女にも何か?」とウェイターがおじさんに訊ねる。
「ああ、持ってきてくれ」
 ウェイターが大きな氷の入ったボウルをテーブルに置いた。何をするのかと思ったら、氷の上にシャンパンを注いだ。
 白い飛沫がふわっと飛び散り、実においしそう。なかなか気の利いた演出じゃないか。僕も飲みたい。
「私ももらっていいかしら」と、パラグアイが僕に訊ねる。
「あ、はい、どうぞ」
「ありがとう」
 パラグアイは僕に向かってにっこりと微笑み、ウェイターに声をかけた。
「私にもお願い」

 ……はめられたことに気付いた時には、すでに遅かった。
 救いを求めるように、僕はおじさんの方を見た。だが、もう目を合わせてくれない。まるで、「君が勝手に注文したんだぜ」と言わんばかりだ。
 ウェイターがふたたび現れて、パラグアイの前にアイスを入れた容器を置き、シャンパンを注いだ。
 気のせいか、先ほどより落ち着いて見える。芝居終わって一安心、といった心境だろうか。
 僕にしてみれば不条理極まりないが、売買契約は成立してしまったのだ。
 パラグアイが僕の膝を叩いて、
「何を考えているのよ、ぼんやりしちゃって」
「いや、その……」
 言い淀んだ時、店に新しい客が入ってきた。
 白人のおじさんと、東洋人の男の子。
 頼りない雰囲気からして、いかにも日本人の旅行者風。にこにこ笑うおじさんに促されて、男の子はソファに座った。
 これを見た時、僕は自分の推測が間違っていなかったことを知った。
 すかさず立ち上がり、僕は宣言した。
「あの、すいませんが、そろそろおいとまさせていただきます」
 おっさんとパラグアイとルーマニアが一斉に僕を見上げる。
「何、もう帰るのかい? もうちょっと飲んで行こうよ」
「明日の朝は早いので……」
「せっかく盛り上がっていたところだったのに」
 盛り上がってなんか、いないだろ。ルーマニアと二人だけでずっと話していたくせに。
 しかし僕はそんな怒りはおくびにも出さず、
「どうもすいません」
「そうか。残念だな。せっかく知り合いになれたのに」
「ええ、僕も」
 おじさんが何か言いかける前に、僕は付け加えた。
「もちろん、彼女の分の代金は払いますよ。僕がご馳走したんですから、ええ」
 途端におじさんは表情を和らげた。
 なるたけ穏やかに、店を出ることだ。こういう人たちともめごとを起こしたら、どんな目に合わされるか分からない。
 ウェイターがやってきた。
「ここで払えるよ」とおじさんがアドバイスする。
「いや、レジで払いますよ」
 おじさんと握手して、ビールの礼を言ってから、僕はレジに向かった。
 ウェイターが伝票に数字を書き込み、計算をする。
 最後の希望。案外、良心的な金額なのではないだろうか。
「シャンパンが187ユーロ。サービス料が10ユーロ。合計……」
 平然とした顔で読み上げるが、日本円にして二万円以上。
 ぼくの目は点になった。
 やられた。完全にやられてしまった。
 やはり、ここは悪質なぼったくりバーなのだ。
 しかし、微妙に払えない金額ではないところが、嫌な感じだ。日本でキャバクラに行っても、おそらくこれくらいは請求されるだろう。
 だが、僕が店にいたのは、たった数分間である。しかも、おごってくれると言うから来たのだ。店の姉ちゃんにシャンパン飲ませるつもりなんて、ちっとも無かった。
「くそ。払えない…」
 僕がうめくと、ウェイターは澄ました顔で言う。
「シャンパンを頼んで、女性たちと楽しくお話して。これくらい、当然かかりますよ」
「しかし、お金が無いんです」
「いくらなら、お持ちなんです?」
 露骨な訊き方。まるで恐喝じゃないか。あまり洗練されていないな。
「50ユーロなら……」
 僕は正直に答えた。嘘ではない。明日の朝にはローマを発つ予定であり、日本円に換算して五千円しか現金を持っていないのだ。
 するとウェイターは眉ひとつ動かさずに言う。
「もちろん、クレジットカードでも払えますよ」
 こんなところでクレジットカードを出したら、それこそ大変な目にあうだろう。現金で50ユーロ持っていかれるより、よほど悲惨なことになりそうだ。
 数十秒間、僕は思案した。
 現金か、クレジットカードか。ウェイターは僕が決めるのを待っている。
 そして、僕は店を飛び出した。
 ウェイターが手を伸ばして掴まえようとしたが、突然のダッシュだったため、僕に触れることはできなかった。
 店の前でつっころび、地面に手をついてしまった。だが、すぐに立ち上がって、走る。
 路地がまるで長いトンネルのように感じられた。
 陸上の百メートル走並みの全速力で走りぬけ、明るいトリトーネ通りへ。
 それほど賑やかな場所とはいえないが、少なくとも人通りがあるし、街灯も明るい。
 それでも、まだ安心できない。理由が何であれ、僕は飲み逃げしたのだ。女にシャンパンおごって、金を払わずに逃げたのだ。もし追いかけてきた店員に「捕まえてくれ、飲み逃げだ!」などと叫ばれたら、普通の通行人まで僕を捕まえにかかるかも知れない。
 トリトーネ通りの反対側に、つい数時間前まで利用していたインターネットカフェを見つけ、そこに飛び込んだ。
 店の中にはたくさんの客。その多くは外国人旅行客だ。
 店内はとても明るい。
 ようやく、安堵の溜息をもらすことができた。助かった、と心の中で叫ぶ。
 さすがにやつらも店の中までは追いかけてこないだろう。
 それに、ここは24時間営業。最悪の場合、朝まで籠もっていることも可能のはずだった。
 とはいっても、バーからの距離は数百メートル。どこかに見張りが立っていて、店を出た途端、捕まる可能性が無いとは言えない。
 僕はレジのおばさんに頼んだ。
「タクシーを呼んでください」
「店の前にいくらでも停まっていますよ」
 おばさんは主張したが、ガラス戸の外を見ても一台も停まっていない。そのかわり、店の前に地下鉄の入り口があった。
 タクシーよりは安全性で劣るが、駅のホームや列車の中で捕まりそうになったとしても、誰か助けてくれるのではないだろうか。
 僕はネットカフェを飛び出し、猛ダッシュで地下鉄の階段を駆け下りた。
 ホームでびくびくしながら列車を待ち、列車の中でもせわしなく動き回り、到着駅からホテルまでの道でも走った。さすがにここまで追いかけてくることは無いのでは、とは思いつつも。
 かくして僕はナツィオナレ通りの安宿、ホテル・ルクソールまで無事に戻ってこれた。部屋のベッドに倒れ込んで、ようやく落ち着きを取り戻した。
 スイス人に宿の名前を訊かれた時、通りの名前だけしか教えなかったのは正解だった。「ナツィオナレ通りの安宿」と言っただけだから、さすがにここを見つけられることはあるまい。
 明日の朝早く、空港に直行しよう。そして悪徳の都、ローマともおさらばだ……。
 と、ここまで考えたところで、ひとつ、大切なことを忘れていたことに気がついた。
 ぼったくりバーに途中で入ってきた、あの日本人風の男の子はどうなったのだろう。
 自分の身を守るのに精一杯で、彼に忠告するということがまったく思い浮かばなかった。
 彼、まだ店にいるのではないだろうか。
 楽しく飲んで、今頃僕と同じように二万円請求されているのではないか。
 いや、ひょっとしたら何も気づかないまま深夜まで飲まされ、最後に膨大な金額を請求されるのでは。
 僕は数分いただけで187ユーロも請求されたのだ。もっと長い時間いたら、どれだけの金額になることか。
 そしてもし彼がそれを払うのを拒んだら……。
 どうなるのでしょうね?
 いや、ひとごとではなかった。
 僕は彼に日本語で注意を促すこともできたのだ。だが、自分のことで頭がいっぱいであったがゆえに、まったく気が回らなかった。
 あるいは、レジで清算するまではそれほど悪質とは思っていなかったというのもある。187ユーロ請求されて初めて、そのたちの悪さをはっきりと自覚したのだ。
 しかし、逃げる時に大声を張り上げて逃げるという手もあったではないか。
 自分の配慮の無さが悔やまれた。
 それに、あの男の子に限らず、今後もあの店が他の客にぼったくりを続けていくことが許されていいのだろうか。
 やつらに一矢報いてやるべきではあるまいか。悪質なぼったくりバーは、成敗されるべきではあるまいか……。
 僕の感情は次第に高まっていった。
 もちろん、僕が店まで行って彼を助け出す必要はないのだ。警察に通報すればいい。それだけのこと。
 とはいっても、それをためらう気持ちもあった。
 僕は顔を覚えられているのだ。やつらの恨みを買うようなことは、しない方がいいんじゃないのか。
 裏にどんな凶悪な“マフィア”が潜んでいるか分からない。逃げてこれただけで、よしとするべきではないのか?
 しばらく部屋で悶々としていたが、やがて決心して、僕はフロントまで降りていった。
 髪を短く刈り込んだ若い兄ちゃんが、フロントで友人らしき男女と雑談している。
 僕の姿を見ると、その男女は軽く手を振って、出て行った。
「すんません。警察署の場所を教えてもらえませんか」
 兄ちゃんは眉をひそめて、
「どうしたの? 何が起きたんだい?」
「話せば長いんですが……」
「教えてくれよ。力になれるかも知れない」
 粋のいい、頼りがいのありそうな兄ちゃんである。ローマに下町という場所があるなら、そういった地区に似つかわしそうな雰囲気の人。
 しかし、ここは外国。誰がどこでどう繋がっているか分からない。ひょっとしたら街のごろつきとつながりがあって、逆に僕の居場所を告げ口されて、宿までやってこられたら……。
 少し迷ったが、僕は兄ちゃんを信じて事情を説明した。
「かくかくしかじか。こういうことなのです」
 兄ちゃんはうなずき、「シャンパン代を払わなかったのは正解だよ。ローマではそういうことがよくある。いい気になって飲んでいると、びっくりするような金額を請求してくるんだ。100ユーロならまだいい方で、1000ユーロ請求されることだってあるんだぜ」
「そうなんですか」
 兄ちゃんはローマのイメージを貶める悪党どもに憤慨しているように見えた。
「強盗と一緒だよ。銃の代わりに女の子を使うだけの違いさ」
「それと、アタマですね」
「そうそう。君は何も取られなかったんだな? それは良かった。それが一番重要だ」
「僕は無事に逃げれたんですが、店にまだ日本人風の男の子が残っていて。彼のことが心配なんです」
「なるほど」
 兄ちゃんは地図を描いて警察の場所を説明してくれた。
「大きな警察署だから、夜でも開いているよ。宿の前の道を南に下がって、教会の前で曲がるんだ」
 宿からそれほど遠くない場所だった。歩いていける距離。
「では、行ってきます」
「言葉の面で問題があったら、宿に連絡してくれ。警察官に英語が通じるとは限らないからね」
 礼を言って、ホテルを出る。
 宿から警察署に向かう道でも、びくびくしていた。まさかこんなところまで追いかけてくるはずがないのだが。用心に越したことは無い。
 そうして左右に注意しながら歩いたのだが、いくら歩いても警察署が見当たらない。
 どうやら通り過ぎてしまったようだ。
 近くのホテルに入り、フロントで警察署の場所を聞く。
「すぐ隣ですよ」
 数歩戻ると、あった。電飾看板に「113」と書かれている。たぶん、これがイタリアにおける警察の電話番号なのだろう。旅行者には絶対に分からないと思う。不親切だ。
 入り口の前に立つと、ガラス戸のロックがかちりと音を立てて自動的に開いた。
 細長い廊下の突き当たりに受付があり、背の高い警官が四人ほど、立ち話をしている。
「すいません、ちょっと聞いてもらえませんか」
「何?」
「詐欺まがいの被害にあったのですが……」
 精悍な顔つきをした若い警官は初めあまり興味なさそうな表情を浮かべたが、それでも手帳を取り出し、メモを取ってくれた。
「場所は?」
「トリトーネ通りのバーです」
「なんて店?」
 しまった、店の名前を憶えていない。これは失敗だった。逃げる途中にでも、振り返って看板を確認しておけばよかったのだ。とは言っても、そんな余裕はなかった気もするが。
「覚えていないんです」
「バー・トリトーネかい?」
 どうだったか。しかし、警官の方から言ってくるということは、前から疑われていた店なのではないだろうか。
「バー・トリトーネなんだね?」
 畳み掛けるように訊くので、僕はうなずいた。
「あとで巡査を行かせるよ」
 警官は手帳を置き、同僚との雑談を再開する。
 それ以上、何も聞こうとしないので、僕は警察署を出た。
 とりあえず、僕にできることはやった。通報は済ませた。結果がどうなるか分からないのは残念だが、とりあえず満足しよう。
 ところが。
 ホテルに戻る途中で、僕はふたたび不安になった。
 警官は店の名前が「バー・トリトーネ」だと判断していたが、もし違ったら? 「バー・トリトーネ」が全然別の店だとしたら?
 僕の通報は何の意味も持たないではないか。
 それどころか、「バー・トリトーネ」の店員にあらぬ疑いが掛けられ、店のイメージは低下し、迷惑をかけるだけじゃないか。
 これは困った。
 さらに余計な問題を引き起こしてしまったかも知れない。
 しばらく悩んだ末、店の正確な名前を確認するしかないという結論に達した。
 とはいっても、歩いて確認しに行くのは怖すぎる。屈強そうなチンピラたちに店の前で捕まって、金払えと要求されたら、今度は逃げられないかも知れない。頭に銃とか突きつけられたら、どうしたらいいというのだ。
 それで、タクシーに乗って行くという方法を思いついた。バーの前を通ってもらい、名前を書きとめて、また警察署に戻ればいいのだ。
 うむ、我ながら名案だ。
 タクシーを呼び止めようとしたが、こういう時に限ってどのタクシーも客を輸送中。どれも大勢の客を乗せて走り過ぎていく。相乗りが盛んのようである。今、深夜0時。みな、一杯飲んで家に帰るような時間だ。
 僕が片手を挙げたまま歩いていると、後ろからクラクションを鳴らされた。
 笑いながら、初老の運転手がイタリア語で僕に呼びかけていた。
「こんなに近くにいるのに気付かないのかい」というようなことを言っているのだろう。
痩せた白髪のおじいさん。暖かそうなフランネルのコートを着ている。
「トリトーネの交差点に連れて行ってください。あるお店を探して、見つかったらそのままUターンして、ここに戻ってきたいんです。いくらになります?」
 ここでタクシー代を二万円近く請求されたら、わざわざぼったくりバーから逃げてきた意味がないのだが、人の良さそうな老運転手は「ノープロブレム」と繰り返すばかりで、値段を言ってくれない。
 むこうも商売だ。少なすぎる額を言って、オーバーした分を払ってもらえないことを恐れたのではないか。ガイドブックで読んだのだが、イタリアのタクシーは信号待ちで加算される量が多く、距離だけでは正確な料金を予測できないのだそうだ。
 仕方なく、金額を確認せぬままトリトーネ通りに向かってもらった。
 ローマ七つの丘のひとつ、クイリナーレの丘の下をくり貫いた長さ500メートルほどのトンネルを抜けると、トリトーネ通りまではすぐだ。車だと、ホテルから案外近いのである。ちなみにトンネルの上にあるのはイタリアの大統領官邸。
「ゆっくり進んでください。最初の角を、右に曲がってもらえますか」
「右? 左?」運転手はきょろきょろ左右を見ながら何度も訊ねる。
「右です」
 細い路地がいくつかあって、どれだか分からない。一方通行の路地もあり、反対側にまわることにした。
 石畳の細い路地をタクシーは器用に走り抜ける。何軒かのバーや喫茶があったが、いずれも問題の店ではない。店先にケーキを並べていたりする。
 別の路地を通って戻ったが、ここでもない。
 あの怪しい緑色のネオンを光らせたバーは見当たらない。
 焦燥感が募る。
 僕はふと思いついて、運転手に言った。
「バー・トリトーネに連れて行ってもらえますか」
「オーケー」
 運転手はバー・トリトーネを知っていた。有名なバーなのか? どういう意味で?
 バー・トリトーネに着いた時、僕は唖然とした。
 それは、僕が夕食を食べた店だったのだ。つまり、自称スイス人の詐欺師に声をかけられる前に利用した、カフェバーだったのである。
 明るい店内は家族連れやカップルでいっぱい。店頭のガラスケースにはおいしそうなピザやケーキが並べられている。
 これのどこがぼったくりバーなんだ? 明るく健全で、どう見てもお姉ちゃんが隣に座っただけで二万円請求されるような店ではないぞ。あの警官はいったい何を考えているんだ。僕の話をちゃんと聞いていたのか?
「ここじゃありません。狭い路地に面した薄暗いバーなんです」
 僕は悲痛な叫びをあげた。
 ふたたび路地を走ってもらったが、やはり問題のバーは見当たらない。
 次第に運転手の身振り手振りが大げさになっていく。彼も苛立ってきているのだろうか。
 ついに僕はあきらめた。
 逃げた時から、かなり時間も経っている。今さらバーを見つけて警察署に通報したところで、どれだけの効果があることか。
「ホテル・ルクソールに戻ってください」
 ぼったくりバーに残されていた東洋人のお兄さん。ごめんなさい。僕は何もしてあげられませんでした。自分の身は自分で守りましょう。
 路地を抜けて、いったん大通りに出たタクシーが、バー・トリトーネの前を横切った。
 ふと見ると、店の前にパトカーが停まっている。警官が降りて、店に入っていく。
 僕は慌てた。警察署からの指示で、さっそくバー・トリトーネに警官が来てしまったのだ。
 このままでは、罪のないバー・トリトーネに迷惑が掛かる。
 事情を説明して、警官に帰ってもらわなくては。
「ここで降ります! すいません!」
 運転手に常識的な料金を払い、警官たちに続いてバー・トリトーネに入った。
 警官が店員に話しかけている間に割って入って、
「ちょっとすいません、僕、さきほど警察に通報したものなんですが……」
 四角い顔に鉤鼻を乗せた気の強そうな三十代くらいの警官と、そら豆のような顔でひょろりとした若い頼りなさそうな警官が、怪訝そうな表情を浮かべて僕を見る。
 自分の立場を説明するのに苦労した。情報の訂正にはコストがかかる。ふたりとも英語はそれほど得意でないようだったが、なんとか理解してもらえた。
 話している間、豆顔がしきりにうなずいてくれて、角顔はほとんどあいづちを打たないので、豆顔の方を向いて説明していたのだが、途中で豆顔がよく分からないという顔で角顔の方を見たら、角顔がすらすらと説明していた。英語が得意なのは角顔の方だった。
 ひととおり聞き終わったあとで、角顔が訊いてきた。
「で、なんていう店なんだ?」
「場所は分かるんですが、店の名前を憶えてこなかったんです」
「それじゃ力になれないね」と角顔は首をすくめた。「店の名前が分からなくちゃ、僕らには何もできない」
 取りつく島も無い。なんてドライな警官なんだろう。
「わかりました。調べてきます」僕は内心、むっとしながら言った。
「店の名前を調べたら、警察に電話してくれ。113番だ」
「一緒に来てくれたり、しませんよね?」
「それは出来ないね」角顔はまた首をすくめた。「僕は今、勤務中ではないんだぜ」
 しまった。
 どうやらひどく勘違いしていたようである。警官の制服を着てるし、バー・トリトーネにいるし、僕の通報でやってきた警官に違いないと思っていたが、実は偶然、お茶を飲みに来ていた警官だったのだ。
 警官はピザか何かを注文し、席に着いてしまった。
 仕方なく、僕はひとりでスイス人と出会った交差点に戻り、記憶を辿って歩いた。
 びくびくである。
 もし、やつらに捕まったら……
 あった。店を見つけた。
 細い路地を入った場所に、ちゃんと、あった。壁に穴を彫りぬいたような、小さな入り口。
 タクシーからは見えなかったが、徒歩と車では、街の見え方が大きく違う。一方通行の路地をタクシーは通り越してしまっていたのだ。
 僕は立ち止まり、目を細めて店の様子を伺った。
 スーツの上に革ジャンパーを着た目つきの鋭い男が店の前に立っている。五十代くらいで、あきらかに見張りという雰囲気。
 看板の文字は、Bar 17。入り口の前には緑色のネオンで「カフェテリアなんとか」と書かれているが、斜め方向から見ているのでよく読めない。
 確認しようと思って近付いていくと、 革ジャンパーと目があってしまった。
 次の瞬間、僕は脱兎のごとく逃げ出した。
「おい、なんだ!?」みたいなセリフを、革ジャンパーが後ろで叫んだ。角を曲がり、大通りを駆けて、バー・トリトーネに飛び込んだ。
 警官ふたりはまだ店内にいた。
「見つかりました、見つかりました!」
 僕は叫んで警官たちに駆け寄った。
 すると角顔の警官、落ち着いた顔で
「警察署に電話しよう」
 あくまで自分たちは関わらないつもりらしい。店の外に出て携帯電話を掛けながら、
「店の名前を教えてくれ」
 僕は地図を広げて説明した。アヴィノネスィという通り沿いだ。トリトーネ通りのすぐ南を、平行に走る細い路地である。
「店の名前はたぶん、Bar 17です。看板にはそう書かれていました。カフェテリアなんとか、とも書かれていたけど、読めませんでした。ネオンサインは緑色で…」
「そんなことはどうでもいい。店の名前だけでいいんだ」
 僕がそうやって角顔に説明していると、驚いたことにさきほどのタクシーの運転手がまだ店の前に車を停めていて、豆顔の警官に何か伝えている。僕がバーを探していることを伝えてくれたのだろうか。だとしたら、なんて親切な人だ。
 電話を終えた角顔は、憮然とした表情を浮かべて店の前に停めていたパトカーに乗り込む。どうやら、本署から「おまえが行け」と言われてしまったようである。
 ブウーン、と威嚇するような音でパトカーのサイレンが鳴って、通行人が驚いて飛びのいた。
「君も店に行かなくちゃならない」と角顔が僕に言う。休憩時間を削られたことに怒っているのか、僕に対する態度はつっけんどだ。
「それはできません」と僕。「これ以上、余計なトラブルには巻き込まれたくないんです」
 それなら、最初から通報なんてするな、という感じだが。
「いや、君も行くべきだ」まるで腹いせのように言い張る。
「僕は代金を払わずに逃げてきたんですよ。あいつら、きっと怒っているはずです……」
「代金を払わなかったなら、君にとって何が問題なんだ?」
「逃げてきた時、店に残っていた日本人風の男の子がいたんです。彼がどうなったか心配で……」
 彼を助け出したいとは思うが、そのことで自分が怪我をするのはいやである。彼の二万円のために、僕がギャングの恨みを買うのは割に合わないとも思う。日本に帰るまでにまだ十二時間もあるのだ。その間、チンピラに追い掛け回されるのはごめんである。
「君は行かなくちゃならない」
 角顔は譲らなかった。どうやら、僕が行かなければ向こうも行く気がないようである。
 つまり、ここまで努力したのがすべて意味なしだ。
 僕は仕方なく、店に行くことを了承した。
 すると角顔はさらに恐ろしいことを言い出した。
「先に行っておきな」
 そんなこと言われても。僕だけ店に行って、あとから警官が来てくれなかったら、どうしたらいいというのだ。
 どうしても一緒についてきてくれと懇願すると、角顔は腹立たしげに後部座席のドアを開けて、乗るように促された。
 運転席と後部座席は分厚いプラスチックの障壁で完全に仕切られている。まるで護送されてるみたいだ。
 パトカーは細い路地を抜けて、Bar 17の前で止まった。
 角顔がずんずん中に入っていく。僕も仕方なく、あとに続いた。その後ろから、豆顔も続く。
 店に入った時の、僕の驚きといったら。
 雰囲気が、さっきと全然違うのだ。
 明るい。客が多い。さきほどの淫靡な雰囲気がまったくない。
 まったくもって、健全なバーに見えるではないか。
 僕は目をしばたたかせた。
 カウンターには痩せた老人。その相手をしている、落ち着いた感じのママ。
 奥のテーブル席は縄のれん越しに見えるだけだが、客がたくさんいて、ざわついているのが分かる。
 いったいどこからこれだけの客が沸いて出たのだろう。
 戸惑った僕がきょろきょろ店内を見回していると、店の奥から小太りの中年の男が出てきた。
 頬と眼の下の肉が弛み、うんさんくさい雰囲気をぷんぷん漂わせた、いかにもイタリア風の小悪党。
 僕を見てにやりと笑って、
「代金を払いに来たのかい?」
 なかなかの皮肉屋さんだった。
 堂々とした態度から察するに、この店の経営者ではないだろうか。
 警官が質問を始めた。それに対して小悪党は、マシンガンのような早口で反論を始める。警官は押され気味だ。小悪党に説得されて、僕が結局187ユーロ払わされることを恐れた。
 小悪党は僕の方を向いて英語で言う。
「日本語だって喋れるんだぜ」
 そしていきなり言った言葉が、
「アナタノ・オクサンハ・ニホンジンデスカ?」
 意味不明な質問。どう反応したらいいのかわからず、僕は狼狽した。
 すると小悪党、カウンターに置かれたパソコンに向かって何やら操作を始める。
「アナタノ・オクサンハ・ニホンジンデスカ?」ともう一度言う。
 ぼったくりバーのカウンターに普通のデスクトップが置かれている光景は、微妙に異様だった。
 シャンパンの明細書でも出てくるのかと思いきや、海辺に立つ白い家の写真が表示された。
「コレ・ワタシノ・ベッソウ」
 脂ぎった小悪党には似つかわしくなく、小奇麗で快適そうな家だ。バーをひとつ経営していたら、これくらいの別荘を建てれるのかも知れない。
 さらに、もう一枚。小悪党が日本人風の女の子と一緒に写っている。
「ワタシノ・オクサンハ・ニホンジンデス」
 結構かわいい女の子だった。
 実際に奥さんなのだとしたら……くそう。
 この奥さん、彼のあくどい商売は知っているのだろうか? そんなことは気にしない人なのだろうか。穏やかでおっとりした感じの、今風の美人だ。
 続けて、五歳くらいの男の子の写真を見せられる。
「ムスコノ・ケンゾウ・デス」
 あまり小悪党に似ていないが、年をとったらこんな小太りで脂ぎった男になるのかと想像すると、かわいそうである。
 小悪党はにやりと笑って、
「ワタシ・カネモチ。アナタ・ビンボウ」
 何を言いたいかというと、カネモチである私が、ビンボウである君からどうしてお金を取る必要があるのか、と主張したいのだろう。
 いや、そうじゃないでしょう。たくさんの人間からボッたから、カネモチになったのでしょう?
 店に入った時、あまりの賑やかさに圧倒されて自信を失いかけた。一瞬だけ、すべて僕の勘違いではないかと思ってしまった。
 だが、この小悪党が登場するに及んで、僕は自信を取り戻した。彼の饒舌さも僕を安心させた。もっと、マフィアみたいな寡黙な怖い人が出てきたらどうしようかと思っていたのだ。もちろん、店の収入の一部はマフィアに流れているのかも知れないが。
 小悪党の後ろでは客や店員がにやにや笑っている。
 こいつらも全員、かなりの悪党なのではないかと思われる。
 特に、ウェイターの兄ちゃんの笑い方は下品極まりない。最初にシャンパンを注いだ時の澄ました態度から一変している。
 他の客も皆、仲間なのだろうか。それとも、普通の客も混じっていたりするのだろうか。
 僕らのやりとりを見つめていたカウンター席の老人がウェイターに何か訊ね、ウェイターが答えると、老人は快活に笑った。僕のことを滑稽に思っているという態度。これもすべて演技だとしたら、すごい。
 日本人の男の子はどうなったかと聞くと、
「中国人ですよ」と小悪党。「日本人なんかじゃありません」
 意味のわからないことを言う。中国人だったら、僕は気にしないとでも思ったのだろうか?
 日本人だろうと中国人だろうと宇宙人だろうと、ぼられているなら一緒じゃないか。
 それとも。
 ひょっとして、あの日本人風の男の子も、やつらの仲間だっとか。僕に話しかけて会話を盛り上げ、さらにふんだくる予定だったとか。
 そこまで考えると、何を信じたらいいのか分からなくなってきた。
 いちおう、店内をすべて確認しようと思ってテーブル席に向かうと、小悪党が両手を広げて立ふさがった。
「ノー」
「どうしてですか?」
「牢屋に行くことになるぜ」
 怖い顔をして言う。
 どうしてテーブル席を覗いたら牢屋に行くことになるのか謎だ。しかし、代金を払わずに逃げてきた手前、あまり無茶はできなかった。
 僕のかわりに角顔の警官がテーブル席の部屋に入った。だが、何の反応も聞こえてこない。
 スイス人は、まだいるのだろうか? 彼がもしスイス人でないとしたら、その点からやつらの詐欺を責め立てられるかも知れないが……
 そのためには、僕が自分で見て確認するしかない。
 小悪党が目を離した隙を狙って、僕はテーブル席の部屋にすべりこんだ。
 あいかわらず薄暗い照明の下、すべての席が客で埋まっている。
 がやがやして、やはり、先ほどとは雰囲気が全然違う。まるで別の店に来たみたいだ。
 そして、日本人風の男の子は見当たらない。スイス人のおじさんもいない。
 ひとりだけ、東洋人の客がいたので、「日本人ですか」と訊いてみたが、首を傾げるだけ。「中国人ですか? 韓国人?」と英語で訊いたが返事がなく、僕はあきらめてカウンター席に戻った。
 それにしても、理解できない。さっきはあんなにがらがらだったのに。どうして今はこんなに客が増えているんだ?
 すべてサクラ? 僕のようなカモを探しにまわっていた連中が、すべて店に呼び戻されたのだろうか。
 それとも、さっきはたまたま客がいなかっただけで、普段は普通に繁盛しているバーなのだろうか。
 そんな店が外国人観光客からぼったくり?
 もしそうだとしたら、ローマは僕の想像を絶する都市だ。
 小悪党が携帯電話をポケットから取り出して言った。
「日本人の知り合いだっているんだ。さぁ、日本語で喋ってみろよ」
 意味不明の行動。日本人の知り合いがいることを警察に強調したいのか? 錯乱しているとしか思えない。今、午前一時くらいである。
「ほら」と携帯を差し出される。
「な、なんでしょう?」と、電話口の向こうで困惑している日本語。
「あーすいません、ご迷惑おかけして……」なぜか僕が謝ることに。「日本人の知り合いがいるから話してみろと言われて……」
「そうですかー」若い、とぼけた感じの声だ。
「お店の関係者の方ですか?」
「いや、単なる知り合いです」
 小悪党が手を伸ばしてきて、僕の手から携帯を取り上げた。
「携帯は電話代が高いんだ」
 怒ったように言って、電話の相手に何も言わぬまま切った。
 カネモチなら、ケチケチするなよ。それとも、ケチだからカネモチなのか?
 そして小悪党は言った。
「アナタ・クルクルパーネ。クルクルパー。クルクルパーデスカ」
 くるくるパーという言葉が最大の侮辱であると思っているかのように、何度も繰り返して言う。
 なんだか、かわいい。
 意図的にかわいくしているのか、それとも本気で侮辱しているつもりなのか。
「はい、僕はクルクルパーです。すいませんでした……」
 僕は謝った。警官が疲れた顔をして言った。
「で、これですべて終了したんだな」
 まさに、終了であった。
 他にできることはない。
 悪質なぼったくりバーに対して、一矢報いることはできなかったようだ。
 逆に、僕がごねたせいで今後はさらに手口が洗練されていくのかも知れない。
 かくして小悪党はますます「カネモチ」になり、純情な旅人はボラれ続けるのだ。
 僕は警官と一緒に店を出た。
 悪は滅びず。
 これからもぼったくりは続いていくのだろう。
 ため息をついて、パトカーのドアに手をかけた。
 開かない。鍵が掛かっている。
「タクシーじゃないんだぜ」と、警官が怒鳴った。
 店の玄関から顔を突き出していた店員たちが笑った。
「あ、そうですね」
 僕は頭をかき、ドアから手を離した。
 パトカーが発進した。
 僕はまた、猛ダッシュで路地を駆けて逃げた。

℃ Taro Tezuka (2004.9.18)

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